「二次元ヒーロー」第一話

狭苦しく散らかった四畳間を橙色に照らす夕陽の薄明かりの下で、幼い永吉は母親と額を付き合わせ、お互いに見詰めあっていた。


場が侘しくさえなければ一見、微笑ましい母子のスキンシップの様に見える画だ。しかし、我が子を見つめる母の目は真っ赤に充血し、呼吸は口角から泡や涎が吹き出る程に荒く、その全身は脂汗にまみれ、そして小刻みに震えている。傍らの年期が入ったちゃぶ台の上には、アルミホイルにのせられた白い粉やろくに洗浄をしていないであろう注射器、ガスの残量が殆ど無い100円ライターなどが、至極乱雑に置かれている。



「あんたはロックスターになるのよ!
そしてあたしを大金持ちにしてくれるのよ!」



母は突如空を仰いで叫んだ。母の額という支えを失った永吉は、受け身をとる事も出来ず無様に茶ばんだ畳に倒れ込み、そのままピクリとも動かない。



「なのに!何で!何で!何で!何で!何であんたはお金を稼いでこないのよぉぉぉ!」



永吉の目の前に、突如大量の星が散った。
元々出来が良くない上に栄養失調で糖分と電解質が足りない永吉のおつむは、それが殴られた衝撃によるものだと認識するのに暫し時間を要した。口の中にじんわりと広がる鉄の味に眉をしかめていると、霞む視界の隅に何かを口ごもりながらちゃぶ台を持ち上げようとする母親の姿が映った。



「バカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにしてバカにして」



……うっすら差し込んできた朝日の中で、永吉は母親が発していたうわごとが自分の寝言である事に気がついた。眼前にはあの頃よりも小綺麗ながら、やはりどこか薄汚れた天井が広がっている。寝汗のすえた臭いが鼻をつく。



「また嫌な夢を見る様になっちまった…。」

どこぞのアニメで聞いた様なセリフが、、口をついて出た。


※※※※※※※※※※※※※※※


声優・愛生永吉。


彼は1970年代の初めの頃、東京都練馬区の区営住宅で、誰からもその生誕を祝福される事無くひっそりと生まれた。生年が曖昧なのは幼少期の彼とその母にとって、単にそれが無意味な物だったからだ。今彼の戸籍に記されている生年月日は、彼が物心ついた頃に入れられた養護施設の所員が、至極適当に後付けしたものである。


万物を恨みがましい視線でねめつける目、低く潰れた鼻、劣悪な養育環境の中で出来上がった細い手足&突き出た腹……永吉は、子供だてらに彼の母親が持っていた「人に嫌われうる負の因子」を全て受け継いでいた。そして、本来友人となるべき子供達から、本来支えとなるべき養護施設の職員達から、本来保護者となるべき里親達から、「ゴミ」「豚」「補助金」などと呼ばれ、蛇蝎の如く疎まれた。




そんな彼の心の支えとなったのが「アニメ」であった。とりわけ、そんなアニメのキャラを魅力的に演じる「声優」なる、顔が見えない人達の神秘性に、永吉は強く興味を引かれた。そうだ。俺だってアニメのキャラになれれば人に好いて貰える。不細工だからアイドルやタレントにはなれないけれど、声だけの声優なら何とかなる筈だ。


無根拠な自信にほだされた永吉の行動はやたら早かった。中学を卒業したその日から日雇いのバイトで学費を貯め、声優業界最大手事務所の一つ・ブルーアークの付属養成所に入所したのだ。只でさえどうしようもない容姿の者が数多く集う声優養成所に於いて尚、永吉の拭い様の無い負のオーラは際立っていた。彼が居る処の半径二メートル以内には、生徒達はおろか講師さえ近付こうとしなかったが、永吉に悲壮感は微塵も無かった。一人ぼっちには慣れっこだったからだ。


そしてその三年後。事務所所属への審査会議の場で永吉のプロフィール用紙を一瞥したマネージャーは、溜め息とも苦笑いともつかぬ吐息を漏らした。根暗・中卒・醜男。幾ら芝居が出来ようと、幾ら声に艶があろうと、どだい声優として大成できよう筈がないこういう素材が、毎年必ず居るものだ。こいつは何をどう勘違いして、声優になろうなどと思ったのだろう。マネージャーは永吉のプロフィール用紙を、「不採用」と殴り書きされている段ボールの中に放り込んだ。しかしその前日、5万円で買った女子高生とのセックスに明け暮れていたマネージャーの手元は、致命的……否、ある意味運命的とも言える狂いを生んだ。




「あれ?相川は?」


ぺラッぺラの背広姿で新所属の挨拶にやって来た永吉の姿を見て、マネージャー達は一様に「しまった!」という顔をした。彼らは元々「相川崇」なる中途半端に端正な顔立ちの男を引っ張り上げてオタク女相手にチョロく一山当てようとしていたのだが、どうも選考の際にプロフィール用紙を取り違えてしまったらしい。別に相川程度の素材など幾らでも居るからそいつを取り逃がした事自体は惜しくも何ともないのだが、いち企業として不良債権を抱えてしまった事は何ともバツが悪かった。マネージャー達は早くも、今後こいつをどう干して事務所から追い出すかに思いを馳せ始めた。



その隣室では、ブルーアーク系列の音響製作会社の関係者達による、次クールに放映されるアニメのキャスティング会議が行われていた。内容は有り体なロボットアニメで、アニメをオモチャやプラモデルを売る為のプロモーションフィルムとしか考えていないスポンサーからの無茶振りの波状攻撃に、監督をはじめとしたスタッフらのモチベーションは下降の一途であった。そして事ここに至り、音響製作会社サイドから「主役にはブルーアークの新人を起用せよ」とのお達しが下ったのである。作品をより良くする為の会議の場が一転して不毛で剣呑とした空気に飲み込まれきった頃、五十音順に薄く積まれた雑魚声優共のプロフィール用紙を指差し、監督が口を開いた。


「どーせ誰使っても一緒なんだから、この履歴書の一番上に積んであるやつ使えばいいじゃん」





収録初日。髪はボサボサ、眉毛は繋がり、総身からカビ臭とも体臭ともつかぬの不快な芳香を漂わながら現れた永吉の姿を見て、スタッフ達は一様に「やっちまった!」という顔をした。


この日、生まれついての忌み子は二次元ヒーローへと生まれ変わったのである。


その経緯はともかくとして。


05/23 01:38

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「講師」後説

演出家ぶりたいロートルと、専業声優として食いっぱぐれたB級の中堅がひしめく声優養成所は、業界にとって「墓場」であると同時に、実収と雇用の両方を創出出来る究極の永久機関でもある。


一方でその業態の道義的・構造的問題は枚挙に暇がない。養成カリキュラムの形骸化、パワハラ&セクハラの横行、専門学校の広告の就職率の粉飾などといった問題が、ここ20年程の間自浄の兆しなくずっと健在である。


そして現場で教鞭を振るっている講師達もまた「声優の育成」なる大義名分が如何に空虚で無意味な物かを知っている。しかしその中で、役者としてはとうに賞味期限が切れている自らの卑しさを自覚し、前途有望な若者を虚業に貶める後ろめたさと戦っている者は皆無と言っていい。皆、「生活の安定」と「役者としての矜持と良心の呵責」を天秤にかけ、最後は業界の歯車になり下がる事を選ぶのだ。当然そこに前向きなモチベーションなどあろう筈がない。


ちなみにとある専門学校には「お前らの芝居なんぞ見てられん!」とレッスンを放棄し、「どうせなら飲み会でお偉いさんに好かれる事で生き延びろ!」ひと単元を丸々飲み会のお酌講座に費やした講師が居たという。筆者自身は目から鱗が落ちる思いだったこの逸話、学費を負担したのであろう親御さんはこの事実を知ったらどう感じるのであろうか。




さて、次章はいわゆる「どういう訳か売れてしまった」というタイプの声優の生きざまをロールプレイしてみたい。こういった者達は厳密に言えば「業界の下流地帯」の住人の人間では無いのかもしれないが、ステータスの膨張に当人の人間性の成長が追い付かないタレントは世に数あまたおり、声優というニッチ商売の場に於いてそういう境遇に居る者の歪み方たるや、これまた段違いであったりする物なのだ。


05/20 11:59

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「講師」第10回(最終回)

「金ねぇんだけど」




実母の容態を聞くが早いか、石井は医師に酷く平坦な声で言った。


バカ母が開けた「お歳暮」とやらは、石井が住んでいたアパートの壁に大人一人が屈めば通れる程の大穴を開けた。石井自身も爆風で吹き飛ばされ頭をしたたかに打ち付けたものの、炎や熱の直撃を受けなかった為に衣服と髪の一部を焦がした程度で済んだ。


一方、間抜けにも至近距離から爆風を浴びたバカ母は、上半身を火に巻かれた上に倒れ込んだ折に頭蓋骨を骨折し、更に救急搬送から手術までに時間が掛かった為に脳死状態となった。今は集中治療室で全身を包帯でくるまれ、「維持費がべらぼうにかかる粗大ゴミ」に成り果てている。



「只でさえこれからアイツが吹っ飛ばしたアパートの莫大な賠償金やら新しい宿探しやらで金が要るんだよ。その上治療費やら入院費やら、どうやって払えっつうんだよ。」


「でも石井さん、声優さんとその講師と、両方おやりになっているんでしょう?」



どこで見聞きしたのやらこの医師、声優というのは市井のタレントと同じく大層儲かる物だと思っているらしかった。年寄りにありがちなとんだ誤解である。が、それを解くために己の窮状を長々と説明するのもこれまた癪だ。



「……とにかく金はねぇんだよ」


「そうですか。まぁ、定期的な収入はおありなんですよね?」



医師はやたらと金回りの事ばかりを尋ねてくる。確かに石井は一週間後、講師業に復帰する手筈になっていた。ただし、場所はこれ迄教鞭を取っていた一心塾ではなく、福岡県にあるナニガシという長ったらしい名前の専門学校である。住まいは東京に置くも自由、福岡に移住するも自由との事であった。後者の様な提案がなされているという事は、このまま東京に留まっても声優としての仕事は無いという事なのだろう。石井はサラリーマンではない声優という立場でありながら、雇い主たる事務所から左遷を言い渡されたのである。


仕事の事は後々考えるとして、まずはバカ母の処遇だ。とは言え、生前より(といっても死んだ訳ではないが)どうとも思っていなかったバカ母に、これ以上割ける労力や金などあろう筈がない。



「何とかなんねぇかなぁ…」


「ですから何度も申し上げている通り、お母様の意識は回復が望めな…」


「いや、そうじゃなくてさ。こっちにゃもう延命の意思がないっつってんだよ。もうさっさと終わらせてそこの焼却炉で焼くとかって出来ないの?」


「………出来ません。取り敢えず今後の見積もり出しますんで、ロビーでお待ち下さい。」



医師は少しの沈黙の後、すげなく言い放った。さして驚いた様子が無いところを見ると、重篤状態に陥った患者の家族が、こんな事を言い出すケースは珍しくないらしい。


診察室を出た石井はそのままロビーを通り抜けて病院の正面出口から外へ出ると、携帯電話を取り出し、病院の電話番号を着信拒否設定した。どうせ一週間後には福岡に飛ばされるのだ。流石に永遠に逃げのびる事は出来まいが、このまま家にお巡りが踏み込んで来る位まではシカトし続けてやる。その間にあのバカ母がポックリ逝ってくれりゃ儲け物だ。


石井は今後の事を至極乱雑に頭の中で整理すると、憑き物が落ちたかの様な表情でパチンコ屋へ向かった。そこでうっかり福岡への引っ越し代をスッてしまい、俯いて歩いている処を頭の悪そうな金髪リーゼントの若者が運転するセルシオに跳ねられ、つい四時間前まで居た病院へUターンするハメになったのである。



※※※※※※※※※※※※※※※※



講師の錯乱に生徒の自殺と激震が続いた一心塾のレッスン再開がアナウンスされたのは、朝倉薫の自殺から三週間経ってからの事であった。


赤井が病死し、江藤が入院、岡田が私用による無期限休養(実際はパトロンとのアバンチュール)となった今、現行体制でのレッスン続行は不可能と判断した一心塾は講師の総入れ換えとカリキュラムの全面見直しを発表した。新講師には10〜15年ほど前のテレビアニメの脇役クラスで活躍していた三十〜四十代の中堅声優四人を選定、これ迄以上にアフレコ実習に力を入れていくのだという。


とうに第一線からアブれて仕事に餓えている中堅共とて、二十歳前後で未だ親のスネをかじっているオタクのガキ共の気は十分引ける。それにこの手の奴らが大好きな「アフレコ実習」という名のアニメごっこなぞ、どんなアホで学の無いポンコツ声優にとて監修が務まる。つまり、これで以前に比べて集客がより容易に、レッスンの進行がより楽になったというわけだ。


リニューアルの効果は上々だった。声優雑誌の広告やホームページの紹介を差し替えた途端翌年度の入塾希望が殺到し、一心塾は急遽、レッスンのコマ数と講師の増員を決定。早くも前年度比の増収が確定した。思わぬボーナスに浮き足立つ運営会議の席上に、三週間前生徒が自殺した事を覚えている者など最早誰一人として居ない様であった。



※※※※※※※※※※※※※※



レッスン再開一週間前。


一心塾新講師の一人・橋口早紀は、教科書の受け取りの為事務所の窓口で田中と対峙していた。彼女は過去アニメ声優として狂い咲きした訳ではないが、脇役として幾多の現場に立った経験を持ち、今も数多くのナレーション仕事をこなしている。年長のオタクの間では比較的知名度も高く、彼女のレッスンを楽しみにしている新入生も多いようだ。「技術の落とし込み担当」として説得力のある人選と言えよう。


田中も石井と対話している時と違い、柔らかい笑顔で相好を崩している。そう、今目の前に居るのは不良債権化したロートル中年声優ではなく、れっきとした売れっ子なのだ。40を過ぎた早紀の落ち着いた物腰はそれ迄のキャリアの充実振りを思わせ、その点は元夫の石井と実に対照的であった。


「じゃ、今後宜しくお願いします。不明な点があったらまた連絡してきて下さい」と至極友好的で明るい声で労いを掛ける田中に、早紀は高価そうな腕時計に目線を落としながら一言、




「自殺するまでイビればいいんでしょ?」と言った。



田中は否定も肯定もせず、ただ曖昧な笑顔を浮かべるばかりであった。



(了)


04/02 01:56

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「講師」第9話

朝倉薫の自殺から二週間。


匿名掲示板の声優スレッドで「一心塾生徒の自殺」がようやくホットな話題になり始めたこの頃、江藤狂乱の余波がまとめてやって来た。


まず「生徒のメンタル面への影響を鑑み」というよく解らない建前の下、一心塾のレッスンの無期限休止が発表された。当然その間、石井をはじめとした講師達は無給である。養成所の稼働が止まってしまえば、そこにいる講師などは役者でも声優でもない。ただのつまらない中年無職だ。


続いて、騒動の火種となった江藤が入院した。とは言っても別に気を病んで精神科にブチ込まれた訳ではない。何の用事があったのか新大久保を虚ろな表情でウロウロしていた所を何者かに刺されたのだという。


更にはその翌日、突如として佐藤事務所に爆破物らしき荷物が送られてきた。宛名は代表取締役・佐藤達夫。幸い爆発はしなかったものの、問題のブツは業界人にしか入手出来ない筈のアニメ製作会社の封筒を使って資料を装う形で送られてきており、「クソオタクの悪ふざけ」を超越した敵意・殺意を感じさせる物になっていた。





「おい、何とかしてくれよ!」


潤いなくパサパサに乾いた髪を振り乱して佐藤事務所に現れた石井は、半ば狂乱の形相で田中に訴えた。連日の人為的災禍は明らかに一心塾の講師や関係者を狙っている。次に狙われるのは俺だ、というのである。


田中は眼力で「そんな訳ねぇだろう、この自意識過剰バカが」と訴え返したが、石井も己が身が危険にさらされているという危機感からか単に物分かりが悪いのか、後には退かない。



「こないだウチに対してテロを宣告してきた蒼極会だとかいう政治ヤクザの仕業だ!間違いない!江藤が刺されて、岡田が何処で捕まえたんだかよく解らないパトロンと海外でよろしくやっている今、次に狙われるのは俺だろ!なぁ!」


「江藤さんは新大久保の雑居ビルの螺旋階段だかで刺されたんでしょ?警察から連絡来ましたけど、またいかがわしいお店に行ってお金の事で揉めたとか、何かそんな話でしたよ?」



ポリ公共も鬱に片足を突っ込んだ中年男の刺傷事件などにはテンションが上がらないのだろう。捜査は至極杜撰に進められているらしかった。



「ばっ、爆発物は?爆発物はどうするんだ!アレこそ警察に通報しなきゃならん物じゃないか!テロなんだからよ!」


「アレは爆発物なんて大袈裟な物じゃなくて、プラスチックの玩具と微量の火薬をそれっぽく組み合わせて見せただけのガラクタですよ。たまに来るんですよああいう感じのヤツが、アンチのちょっと頭おかしいオタクから。そんなモンいちいち通報してたんじゃキリがないでしょうよ。それに…」


「それに?」


「事務所に爆発物が来たなんて事が知れ渡ったら、来年の養成所の生徒が減って売り上げが下がるでしょう。石井さん、そこそこ業界長いですよね?そんな事もわかりません?」



田中も遂に石井に対する蔑意を隠さなくなった。こいつら、どれだけ俺を軽んじりゃ気が済むんだ。……だかしかし、しかしだ。



「タっ…タレントに何かが起きたなら、それを護ってみせるのが事務所の仕事だろうよぉぉぉ!」



石井は遂にその場にへたり込み、さめざめと泣きだした。声優事務所の軒先で五十近い男が泣いている。醜悪を通り越して最早どことなく滑稽な風景であった。が、次の瞬間。



バンッッッ!!!



田中が机をぶっ叩く音が陰鬱な空気を切り裂き、石井は双肩をビク付かせて黙り込んだ。事務所の田中以外のスタッフが皆、驚いた様子もなく何食わぬ顔でデスクワークを続けているのが不気味だ。田中は一度明後日の方角に目線をやった後これ見よがしに舌打ちをしてみせ、満面に侮蔑と苛立ちをたたえながら、立ち尽くす石井にゆっくりと向き直った。



「そりゃあね、アンタがウチにとって【守る価値のある駒】なら手立てを考えますよ。人手も割きます。でも、今のアンタに仕事が取れますか。取れません。CDなり本なりを売れますか。売れません。太い仕事を持ってるプロデューサーなりクライアントなりとコネがありますか。ありません。ビジネスの枠を超えた付き合いや繋がりを望まれる程の人間的魅力や心証がありますか。ありません。この事務所にお金の雨を降らせる事が出来ますか。出来ません。断じて、断じて出来ません。」


「あ…え…」


「商業タレントのすべき仕事とは何かわかります?事務所への貢献です。いい芝居が出来るでもなく大層なゴタクが語れるでもなく、お金を稼げる人が一番偉いんです。そういった意味でのアンタの【一社会人としての価値】は「ゼロ」なんですよ、わかります?履行すべき事を履行してない人に権利を主張する事が出来る筈がないでしょう。」


「あ……う…あ……」




石井は浴びせられる罵詈雑言に体温を一度一度奪われるかの様な感覚に耐えられなくなり、無言でゆらりと踵を返した。



「あ、そういや赤井さんが亡くなったそうですけど。もしもーし、聞いてますー?」



隣町の駄菓子屋で起きたケチな万引き事件を伝えるかの様に、至極どうでもよさげに田中が言った。



※※※※※※※※※※※※



失意の内に帰宅した石井は、玄関先から居間にバカ母の気配を察した。このバカ母、問い掛けには総て舌打ちで返事をし、たまに気まぐれで鉄拳をくれてやっていたら、最近めっきり口数が減って大人しくなった。まぁ他者への干渉をしなくなった分だけ白痴化が進んだとも言えるのだが、この際その方が面倒がなくいい。どのみち生きていても一分も世の中の為になりゃしない事には変わり無い。



「あーそういえばね」



バカ母が居間から玄関先の石井に話しかける。とはいっても四畳半一間のボロ家であるからその距離は3メートル程で、安物のカーテン越しにお互いの挙動が見て取れるのだが。無論、返事などしない。声色が少し嬉しげなのが無性に腹立たしい。



「荷物が届いたの」



荷物だと?



「お歳暮みたい!開けるわね!」



待て。
石井は少なくともここ数年、誰かにお歳暮を送られる様な貸しを作ったり、世話をしてやった覚えはない。かと言ってこのバカ母に、石井がそれ程立派な人間で無い事を裏読み出来る程のアタマがあるとも思えない。荷物。段ボール。事務所に届いた爆発物。爆発物。爆発物爆発物爆発物爆発物爆発物爆発物爆発物爆発物爆発物。


頭脳が結論を絞り込むより早く、反射的に口が動いた。



「おいバカッ………」



開けるな……と続けようとした次の瞬間、目の前一面に真っ白な閃光が広がった。視界の真ん中に、木の葉の様に力無く吹き飛ばされるヒトの体のシルエットが浮かぶ。


シルエットはひどくいびつなスローモーションで左右に二〜三回揺れた後、糸の切れた人形の様に真後ろにゴトン、と倒れた。視界が少し晴れてきて、そのシルエットが上半身を炎に巻かれたバカ母だという事に気がついた。




玄関先で靴を脱いでいた筈の石井は、爆発で吹き飛ばされたからなのか、背後の壁に貼り付けにされていた。石井はこのぼんやり白んだ空間の中で、直感的に、そしてハッキリと「死」を予感した。


嫌だ。まだ死にたくない。


俺と同じ役者のなり損ないのクセにアフレコの現場でベテランなどと呼ばれ、打ち上げで安酒を煽ってバカガキ相手に息巻き、しょうもない仕事で俺よりもいいギャラを貰っている同年代の卑しい声優共の顔に唾を吐きかけてやる迄は。


養成所のガキ共をイビりながら面白おかしく過ごし、童顔で比較的体の凹凸が少ない女生徒を片っ端から食い散らかし、その中でもとびきりの上玉を嫁にして、俺を見限った早紀を見返してやる迄は。


声優としてのみならず俳優としても大成して赤絨毯を歩き、当然の営みとして中学生を抱いた俺をパクったクソッタレなポリ公とそんな俺を嘲ったアホ共を、グッチの革靴の爪先で赤黒い血塊を吐く程蹴りつけてやる迄は。




それから。
えーとえーとえーと。



あれ?


俺の野望ってこんなにチンケなモンなのか?



50年近く生きてきて、40年近く役者やってきて、そのゴール間際に浮かぶ走馬灯が、僻みと妬みとエロにまみれた非現実的な妄想ってなんなんだ。戸惑い立ち尽くす石井の傍らをバカ母が、社長の佐藤が、股間を勃起させた江藤が、哀しげな表情をたたえた朝倉薫が、物凄いスピードで通り過ぎていく。そして最後に現れたのは、身の丈石井の三倍はあろうかという田中だった。田中は石井を見下ろし、至極よく通る声で言った。




「それが貴方の人生の総てだったんですよ」




次の瞬間、石井の混濁した意識を轟音と灼熱感が襲った。刹那、石井は僅かに残った思考力で、生き残ったら生き残ったで地獄しか残されていないであろう己が余生を悟ったのであった。


03/15 03:54

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「講師」第8話

「政治結社?」



朝倉香の自殺から一週間後。
代表者・佐藤達夫を筆頭とした佐藤事務所付属養成所・一心塾関係者五名の個人情報漏洩事件は、思わぬ展開を見せた。匿名掲示板に情報が曝された翌日、蒼極会という政治団体のホームページのトップに、匿名掲示板で曝された物と全く同じ情報と、一心塾の放漫経営を糾弾する文章が掲載されたのである。


「訓告」と題されたその文章は「一心塾なる声優養成所はいたいけな少年少女とその親を相手にアコギな商売をしていてけしからん云々」という、既に匿名掲示板では言い尽くされている内容に始まり、「関係者には近日中に必ず社会的制裁を加える」といささかおっかない文言で締めくくられている。何で政治ヤクザが声優プロダクション如きを槍玉に上げるのか…といぶかしがる石井の目に、文末に添えられた「青井貞三」なる代表者の名前が留まった。



「ウチの養成所にいる青井良人の父親ですね」



傍らで田中が青井良人のプロフィール用紙をひらひらかざしながら言った。青井は朝倉の自殺以来レッスンに顔を出していない。元々いけすかない、得体の知れない奴だと思っていたが、よもや政治ヤクザの息子だったとは。



「生徒に聞き込みを行ったところ、この青井と自殺した朝倉薫が生前交際していた事が判明しました。」



ああ。知っているとも。そしてそれを知った江藤がトチ狂って起こした騒ぎが、恐らくは朝倉の自殺のきっかけになった事も。
石井は30年の芸歴の中で培った、その割には貧弱な役者としてのノウハウを脳内でフル稼働し、つとめて平静を装った。



「そういや赤井さんの容態はどうなんだ?」

「何でも病院で意識不明になってるそうで」


多分数日中に死ぬだろう。
哀悼の気持ちなど微塵も沸かないが。


※※※※※※※※※※


この日の帰り際。
石井は練馬警察署に呼び出されていた。



「お母様が食い逃げをなさいまして」



「食い逃げ」という間抜けな罪状と「なさる」という敬語が妙なコントラストを織りなすこの警察からの電話を、石井はパチンコ屋で受けていた。回転寿司屋で十二皿もの寿司を平らげたバカ母は無銭飲食を咎められた途端駄々っ子の様に倒れ込んで泣き喚き、しょっぴかれた先の警察署で身元引受人として自分の名前を挙げたのだという。


「くびり殺してドブ川に放り込んでおけ」という台詞が喉元まで出たが、仮にも自分は役者だ。タレントだ。ここで妙ないざこざを起こせば後々の活動に差し支える。知名度皆無の声優がポリ公相手にケチな小競り合いを起こしたとて別にどうという事はないのだが、石井のこの過剰な自意識と妙なプライドは、結果としてバカ母を救う事になった。


これから正に確変というタイミングで興を削がれた石井は、怒り心頭の面持ちで署の待合室に現れた。殺風景な個室には、毛糸のほつれが目立つ毛玉だらけのセーターを着たバカ母と、満面に怒気を滲ませた飲食店の店員らしき男、さらには「やる気」という言葉を思春期に置いて来たのであろう無気力な表情の警察官がいた。



「あらよしひろちゃん。いやね、お昼にお寿司食べたんだけれど、お財布おウチに忘れちゃったのね。だのにこの人達ったら怖い顔しちゃって警察なんか呼んで…」


「忘れたってアンタ、財布ん中にニ百円しか入ってなかったじゃないかよ!」



石井の顔を見るや否や機関砲の如く言い逃れを始めるバカ母に、傍らの男が血相を変えて言い放った。警察官は質の悪いシャブでもキメているかの如く静かだ。



「だから言ってるじゃない!ちゃんと支払うつもりだったって!」


「嘘つけ!ハナからそんな様子なんか無かったじゃないか!」


「そんな事ないわよぉぉ!
何でそんな事言うのよおおお!」



真っ向から対立する言い争いを、石井は至極覚めた目で見つめている。というのも、このバカ母には常日頃から小学生の小遣い程度の金額しか持たせていない。まとまった金を渡すとすぐにあるだけ使ってしまうからだ。つまり元より寿司など食える筈が無い事は承知の筈だったのだ。


それにしても最近、バカ母の行動がこと極端に短絡的になってきた。目先の食欲を理性で制御できずチンケな食い逃げに走り、それでいてそれを咎められたならば稚拙な言い訳を重ねて追い込まれ、挙句泣く。


最早幼児以下の動物だ。畜生だ。ならば、それをしつける方法は一つしかない。




石井は無言でバカ母に歩み寄ると、鼻っ柱目掛けて思い切り鉄拳を叩き付けた。バカ母は文字化困難な奇妙なうめきを挙げ、パイプ椅子から崩れ落ちる。そして石井はバカ母の様子をみやる事なく、呆気に取られた表情の寿司屋に恐ろしく平坦な声で「申し訳ありませんでした」と言った。



「あ、終わりました?じゃあ、こっちで手続きありますんで。」



皆余程手を焼かされたのか、コンクリートの地面に突っ伏して呻くバカ母を気遣うものは誰も居ない。その場にいる警察官さえもだ。


今はこの警察官のやる気のなさがただただ有難かった。


02/16 04:29

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「講師」第7話

「これから諸君は、この世界で大成するにしろ、他の世界で大成するにしろ、その過程の中で多くの困難や苦難に直面する事と思います。」



養成所生の自殺という激震に見舞われた翌日。一心塾の全生徒を召集して行われた緊急全校集会の席上で涙ながらに熱弁を振るうのは、佐藤事務所の代表取締役・佐藤達夫その人であった。



「しかし‥‥しかし、その様な事で‥」



「“泣きの佐藤“の面目躍如ね。」
岡田が生徒達には気取られぬ様、薄ら笑いを浮かべて言った。



今となっては余り知られていない事だが、佐藤もかつては役者であった。が、彼の激情をぶつける様なピーキーな芝居は、爽やかで毒にも薬にもならないテレビ俳優をもてはやす世相の中では受け入れられなかった。


その後彼は、こういった人前での演説や大事な商談・交渉の場で、昔とった杵柄を振るう事がある。余りに大仰な彼のパフォーマンスは「芝居」として見てみれば滑稽であるが、社会的にステータスの有る人間が取り乱してみせる画というのは下層階級の人間には妙な説得力を伴って見えるものだ。実際、生徒達の中にも何人か、空気に当てられて貰い泣きしている奴が居る。



「うっ‥どの様な‥‥‥事があっても‥‥決して‥決してッッ‥命をッ‥‥‥ご親族を悲しませる様な事はッ‥‥うっふぉおんっ」



そう言えば、直立不動の姿勢で神妙にしている生徒の中に青井義人の姿が見つからない。心労で体調でも崩したのだろうか。


※※※※※※※※※※


「最近の子はヤワで困るなぁ。全くよぉ。」


緊急全校集会に先立つ事30分前、全校集会前のミーティング。養成所デスクの田中をはじめとしたスタッフと講師の石井・岡田が揃った養成所の事務室の一角で、誰に向けてでなく恨み言を吐いたのは、佐藤事務所の代表取締役・佐藤達夫その人であった。


佐藤の役者としての経験は現在、人間性の裏表の激しさにその名残を残している。だからこそ、事務所関係者の前で悪態を付いた後、返す刀で号泣しながら大演説を講じるなどという事を造作もなくやってのけられる。




実の処、養成所や専門学校に通う声優の卵が、自らの将来への不安や人間関係の悩みから自ら命を断つといった事は、業界規模で言えば何年かに一度起きている。ここで心配なのは生徒間の動揺や志気沈下などでなく、次年度以降の生徒集めに支障が出て売上実収が下がる事態だ。その為にも今回の事をコップの中の嵐として、なるべく早い段階で鎮静化させる必要があるのだ。


つまり、今日の社長来臨はガキ共のフォローなぞの為ではなく、佐藤事務所グループの中でも一番の優良事業である養成所部門の売上堅持が目的なのである。粗末な事務用のイスにふんぞり返る佐藤の不機嫌な顔付きと態度からは「ったく、つまんねぇ尻拭いをさせやがって」というオーラが悠々と出ている。



「でさ、何で死んじゃったの?そのアサイって子は」

「うーん、心当たりがないですね。昨日の江藤先生の件が起きる迄は」



石井は自らが江藤錯乱のきっかけを作ったことなどあたかも忘れたかのように、しれっと答えた。生徒の名前の間違いを指摘する人間は誰も居ない。



「ふーん。まぁでも、これじゃ業界に出ても保たなかったろうね。」



佐藤は自殺した朝倉香の履歴書を指先でヒラヒラさせながら半笑いで言った。故人への非礼を咎め立てる人間は誰も居ない。



「あれ?田中。赤井さんは?」

「何か入院されたとかで。」

「ふーん‥‥‥まぁご高齢だしね。居ても居なくても一緒か。」



佐藤はさも「このまま居なくなってしまえばいいのに」と言わんばかりの語調でひとりごちた。その発言の不謹慎さをたしなめる人間は、やはり誰も居ない。


※※※※※※※※※※


「ネット上の匿名掲示板に、一心塾講師陣の個人情報が掲載されている」との報が石井の元に舞い込んで来たのは、その翌日の事であった。


石井の家にはインターネット環境がない。かといって、携帯からその書き込みを閲覧する方法もよく分からない。取り敢えず事務所に顔を出してパソコンから内容を確認する事にしたのだが、今目の前にある端末のどこをどう操作すれば問題の箇所に行き着くのか、これがまたよくわからない。



「田中、これどうやって見るの?!」


「‥‥‥えーと」



田中は面倒くさそうにイスから立ち上がり、石井の目の前にある端末をカチャカチャやり始めた。こいつ、立ち上がり際に小さく舌打ちしやがった。が、今はその事をどうこう言っている場合ではない。


画面には匿名掲示板の声優スレッドの中の「佐藤事務所養成所の非道を糾弾するスレ」という題名が映し出されている。その中の「首謀者一覧」という書き込みの下に、佐藤社長・赤井・石井・江藤・岡田の住所と電話番号が書き込まれていた。他の奴らのはどうだか知らないが、少なくとも石井の住所と電話番号として書き込まれている情報は、今彼が住んでいる六畳間のボロアパートの物に相違なかった。



「おい田中、どういう事だ!俺だけの住所や電話番号が曝されたならともかく、他の講師の個人情報までまとめて載ってるって事は、漏洩元は事務し…」


「今事実関係を洗ってます。掲示板の運営者には削除依頼を出してますから。」



田中は石井と目を合わす事なく平坦なトーンで言い放った。「すいません」の一言もない。事務所に過失があったと判明するまで詫びるつもりはない、ガタガタ言って手を煩わすなとでも言わんばかりだ。



「削除依頼‥って、残ってるじゃないか!社長の住所や電話番号まであるぞ!?」


「経営規模の大きい掲示板ですから即時対応は難しいんでしょう。あと、社長の住所と電話番号は別宅で、昨日早急に引き払われたから大丈夫ですよ。」



田中はいともあっさり言ってのけた。そりゃ社長は大丈夫か知らないが、俺にはそんな経済的余裕はねぇよ‥‥‥石井はそう言い出そうとして、途中でその格好悪さに気が付いてやめた。


つまるところ、今後石井自身になにがしか不都合が起きる可能性はあるものの、今の彼にはパソコンの事はよく分からないし転居する為の金もない。何も対処できないという事だ。悪戯電話対策として掲載されている電話番号を変えるくらいしかやりようがない。


石井は番号変更の手数料を手早く稼ぐべく、パチンコ屋に足を向けた。そして五千程稼ぐつもりであった所を五万円スり、帰宅なりバカ母を理不尽な理由でどやしつけて泣かせた。


01/12 00:57

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「講師」第6話

「分かりやすいな、お前は。」



石井は台本読みを終えた男子生徒に、気だるく嫌味ったらしく、嘲笑のニュアンスを込めて言った。



「お前はアニメのヒーローになりたがってるんだ。で、チヤホヤされたがってんだ。お前の読みからはそういう嫌らしさが伝わってくんだよ。」



今石井の前で立ち尽くしている生徒の名は青井義人。非常に淀みが無く流暢でカドの立ちにくい、万人に好感を持たれそうな声の持ち主だ。ルックスも悪くない。


一昔前までは、役者の間じゃアニメ声優なんてのはではいい大人が妙なオモシロ声で喋って小金をさらう賎職と相場が決まっていたのだが、今ウケるのはむしろこんな当たり障りの無い声質の奴なのである。こいつはこのまま現場に放り込んでも、恐らくそこそこの働きをするだろう。


‥そしてやがては石井以上に売れ、石井以上に稼ぎ、石井以上にチヤホヤされ、石井よりたくさんイイ女を抱くだろう。


ならばせめてこいつに、自分の恩師は俺なのだと自覚させなければ。隷属意識を植え付けなければ。そんな卑しい嫉妬と焦燥感が、石井を言いがかりにも近いダメ出しへと駆り立てているのであった。



「喋りの端々から見えるんだよ、そういうのはよ。そんなモンは芝居でも何でもねぇ。役者が持つべきモチベーションじゃねぇ。芝居をナメんな。次。」



レッスン室が緊張に包まれる。しかし、最近はその緊張に「まーた始まった」という弛緩が入り混じる様になってきた。最近は生徒連中の中にも、一心塾の講師達がただのお飾りでしかない事を察している奴が居て、そういう奴なぞは石井の威圧に動じないのだ。


実際この青井も石井のダメ出しに素直に恭順するでなく、分かった様な分からない様な顔をしながらいそいそと着席していった。その余裕が心底けったくそ悪い。くそ、お前らもっと俺に怯えろよ。俺に媚びろよ。


※※※※※※※※※※※※


帰宅の途。


石井は稽古場最寄りの笹塚駅で寄り添う若いカップルを見掛け、次の瞬間息を飲んだ。


青井義人と朝倉香であった。


お互い抱き合う様に身を寄せ合い、微動だにしない。朝倉は青井の胸に顔をうずめて目を閉じている。将来の売れっ子候補と学年きっての美少女のカップル。養成所生間の恋愛なぞ別段珍しい事でも何でもないが、稽古場近くで乳繰りあってしまう辺りが若者ならではの迂闊さだ。


この事をあのロリコン江藤が知ったらどんな反応をするだろう。石井はふと朝倉の顔だけがはっきり分かる様に携帯電話のカメラで二人の姿を撮影すると、江藤に送信した。その5秒後、江藤から着信。電話に出るべきか少し迷ったが、結局好奇心が勝ち着信ボタンを押す。


携帯電話を耳に当てるが、電話の向こうの江藤なかなか話し出そうとしない。興奮と動転が入り交じったような荒い息づかいが聞こえるばかりだ。何だこいつ、気持ちわりい。電話を切ろうと端末を持ち変えかけたその時、か細く震える声で江藤が話し始めた。



「‥‥‥どう言う事なんですか!」


「もしもしの一言もなしにいきなりソレかよ。どう言う事も何も写ってる事が全てだろうが。」


江藤は電話越しにも分かる程の涙声であった。


「あ、ああ、相手の男は誰なんですか!」


「知らねえよ」



石井は敢えて嘘をついた。教えてやってこいつに青井をいびらせるのもいいが、情報を小出しにしてその狼狽を観察した方が面白いだろう。



「アンタがコイツにどんな幻想を持ってんだかは知らないが、コイツもいっぱしのメスだったって事だよ。お疲れさん。」


※※※※※※※※※


翌日。


この日、石井は養成所を運営する教務課の職員の田中に呼び出され、教材の選定を行っていた。岡田は前日にこの作業を完了し、今は別室でレッスンをしている江藤も、後ほどこちらにやってくるという。


「あれ?赤井さんは?」


「なんか体調が悪いだとかでー」


田中はこちらに目線をくれる事なく言った。まぁいい。居ても居なくても同じだ。




事務室の一角には様々な絵本や詩集や戯曲が山と積まれている。翌年生徒達に配られるテキストで題材として使う作品をこの中から選ぶのだ。ちなみにこの様に商業作品として出回っている著作物を自社制作の教科書の中で使用するのには当然版元の許諾が要るのだが、費用も手間も掛かるので取っていない。どうせバレやすまいし、バレたところで大事にはなるまい。


こんな物、幾ら練習させたとて結局将来プッシュされるのは顔がイイ奴なのだから、何を選んだ処で同じ事だ。選定作業にしても特に教育的・学術的基準がある訳ではなく、講師がおのおのの好みの題材をピックアップして申告するだけ。声優の卵達にとって聖典にも等しい教材は、この様に中学生が学園祭の題材を決める様な軽いノリで作られていくのであった。




題材の山の中から石井が「ごんぎつね」を手に取ったその時だった。


「何だその読みはァァァ!!!!」


上の階の教室でレッスンをしている江藤の怒声が漏れ聞こえてきた。平時弱腰で役者とは思えぬ程に声が細く、生徒にナメられ倒している江藤が声を荒げるとはただ事ではない。久しぶりに出したのであろう大声は思うさま裏返っていたが、そのリアリティがかえって事態の切迫を物語っていた。


「ちょっと見て来る」
石井は笑みを堪えながら田中に一声かけ、江藤がいる教室へと向かった。




「お前の今の読みはァ!男を知った読みだァァ!!お前!抱かれたな!?ヤッたなァァ!?」


教室のドアの向こう側から声を裏返らせてがなり立てる江藤の声が聞こえる。石井はドアを開けて教室に立ち入った。


江藤は顔を真っ赤にして立ち上がり、尋常でないテンションで生徒を叱り飛ばしている。

叱責の相手は朝倉香であった。

ああ成程、そういう事か。見た感じ朗読のダメ出しの最中の様であったが、その態度にしろ言動にしろ、講師が取るべき物としては常軌を逸している。このバカ、身の程知らずかつ見当外れな嫉妬の末狂いやがったか。




江藤は視界の隅に石井の姿を認めた様だが、朝倉から決して目線を外す事無く、お構い無しに身勝手な呪詛をぶつける。



「くわえ込んだのか!男のモノをくわえ込んだのか!入れられたのか!!」


「ちょっと、やめなさい、江藤さん!」



石井は己に危害が及ばぬ様に一定の距離を保ちつつ江藤の動向を見守った。すると次の瞬間、江藤は傍らにあるパイプ椅子を振り上げた。目は真っ赤に血走り、口の両端からは白い泡が吹き零れている。



「お前は僕の気持ちを裏切ったんだ!裏切ったんだ!裏切ったんだぁぁぁ‥‥‥」



江藤は振り上げたパイプ椅子を大きく振りかぶり無作為にぶん投げた。生徒達が悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らす様に逃げ出す。パイプ椅子はどんくさい一人のデブ生徒の頭を直撃し、跳ね返ってそばにあった教室備え付けの鏡を叩き割った。デブは側頭部を押さえてうずくまっているが、他の生徒は誰も彼を気遣おうとしない。皆自分の身を守るのに精一杯なのか、単にデブが嫌われているのか。




これはいよいよもって洒落にならない状況になってきた。クソガキ共がどんな目に遭わされようが知った事ではないが、養成所の稼働が止まって食い扶持が無くなるのは困る。


石井は江藤の背後から掴みかかり、その動きを止めようとした。が、無造作に暴れる江藤の頭が石井の鼻っ柱を直撃し、視界に星が散る。石井は本気で腹が立ち、堅く握った拳を江藤の首の後ろの骨が出っ張った場所に思い切り叩きつけた。


すると、江藤の体が電流でも流れたかの様に硬直し、そのままの姿勢でぶっ倒れ、激しく痙攣しだした。全身の筋肉がバカになっているのか、失禁して股間の辺りが水浸しになっている。まずい。当たりどころが悪かったか。石井は慌てて江藤の意識があるかを確かめた。



「けひゅん‥けひゅんけひゅんけひゅんけひゅん‥‥‥」



江藤は何とも奇妙な声を上げながら泣いていた。心配させやがって、くそぼけ。生徒達からは見えない角度からもう一度首筋に鉄拳を叩き込んでやったら、今度は変なうめき声を上げて脱糞した。


ああ、こいつ、本当に終わりやがったんだな。


結局こいつは一人間・一社会人として、誰にも慕われず誰にも信頼されず誰にも尊敬されずに終わったのだ。自分はそのきっかけから終末迄をつぶさに見届けた。思えば貴重な経験をしたものだ。まぁ、こいつ自身は実にしょうもない人間だったが。


石井はただならぬ気配を察して飛び込んで来た田中に後始末を任せて教室を後にし、迫り来る救急車のサイレンをBGMに、どこか清々しい気持ちで帰途に就いた。そして、帰りに「スイートピーチ」で安いアジア女を抱いた。
















朝倉香が首を吊って自殺したのはその日の夜の事であった。


10/12 15:47

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「講師」第5話

C組のレッスン開始前。石井の元に、緊張の面もちで一人の女生徒がやってきた。


「すいません石井先生、隣のD組の朝倉香です。ちょっとお話があって‥‥‥」


朝倉‥‥‥。
前日、江藤の口から出た女生徒の名であった。


石井は薄くシェードの掛かったサングラス(\1000)の奥から、朝倉の体躯を頭頂部からつま先までなめる様に一瞥した。その体は細身で余計な肉付きがなく、ともすれば中学生と言っても通用してしまいそうな雰囲気があった。肩口まで真っ直ぐに伸びた髪は若々しい艶に溢れており、吸い寄せられそうな漆黒が蛍光灯の明かりに照らされている。


何より石井の目を引いたのはその顔立ちであった。幼い顔立ちのから覗く東洋人独特の凛とした瞳が、緊張をたたえて潤んでいる。その伏し目がちの表情に石井はいたく嗜虐心を刺激された。くそ、こんな事ならD組を受け持っておくんだった。常日頃から彼女を視姦しているのであろう江藤が、急にうとましくなってきた。


「あ、あのう、先生がこないだ『個性派』って言葉は私達にはまだ早いって話をしてたって聞いて‥‥」


「‥‥ああ。」


‥そういやそんな話もしたっけか。

事もあろうに石井は、前週、全養成所生を恐慌の嵐に巻き込んだ「個性派発言事件(※石井のでっち上げ)」の事を綺麗さっぱり忘れていた。


「その日の事じゃないんですけど、私、同じクラスの娘に似た様な事を言った事があって‥‥‥
もしかすると先生のお気に障ったんじゃないかって思ったんです‥‥‥ホントに、ホントにすいませんでした‥‥!!」


朝倉の目の前に居るのは、自分の夢と、将来と、人生を握っている養成所の大先生様なのだ(実際にはそんな事は全く無いのだが)。緊張が極限に達したのか、最後の一節はもはや涙声であった。石井はそのまま朝倉を押し倒して着ているブラウスを剥ぎ取りたい衝動を抑え、自分の中で出来うる限りの低く艶のある「イイ声」で話しはじめた。


「‥そうか。

確かに養成所にいる内ってのは、生徒同士で誉め合う事がつい気持ちよくなっちまうからな。お前、幾つだ。」


「18です。今年四月に、高校を出たとこなんです。」


さり気なく年齢をチェックした。養成所の入学規定上の最下限。若い。よく見れば肌ツヤも他の二十歳を過ぎた生徒とは段違いであった。イイ。イイぞ。100円ショップで買ったトランクスに収まったモノがじんわり熱を帯びる。


「18か。まぁその年で勘違いに気付いたってな見所がある証拠かもしれん。
また何か壁にぶつかる事があったら相談してきたらいいからな。頑張れよ。」


「‥‥はい!!」


朝倉は安堵と共に感極まった様で、部屋に入ってきた時以上の涙目になりながら頭を深く下げた後、慎ましい足取りで退室していった。


石井は只の雇われお飾り講師である。いかな下心を持ったとて、彼女の将来に対して便宜をはかる事も、それを材料に彼女を云々する事も出来はしない。せいぜいこんなみみっちい贔屓程度の事が関の山であった。


※※※※※※※※※※


いつもの如くレッスンを至極適当にこなした石井は、南長崎の自宅に直帰せず、新大久保ののとある雑居ビルの一室にいた。


ここはロリコン御用達・未成年専門の会員制買春クラブ「スイートピーチ」。石井は5年前、同好の士から他言無用をキツく言いつけられた上でこの非合法店を紹介された。仰向けに寝転んだ石井の上には浅黒い肌の細身の女が跨っている。


ここの会員はその社会的地位・利用実績などからA級〜C級とランク分けされる。上級ランクに政治家やテレビでよく見かける芸能人が名を連ねているこのクラブに於いて、石井は当然Cクラス会員であった。故、あてがわれる女も大概が片言の東南アジア人で、そもそも皆が皆本当に13才〜18才であるのか心底怪しかった。


今日抱いてる女にしても、声は酒焼けしたかの様にガラガラだし、肌に顔を寄せると成年独特のすえた体臭がする。間違い無く20才以上だろう。が、いいのだ。顔は決して可愛くはないが、全体的に凹凸のない体躯は石井の好みで、少女とセックスしているかの様な雰囲気は十分に味わえる。




石井はふと何かを思い付いたかの様に、腰を振りながら自分に跨っている女に声をかけた。


「お前、今から俺を先生って呼べよ」

「ナニ?おキャクさん、ガッコのセンセなの?」

「ガタガタ言うな。言う通りにしろ。」


女は軽くため息をついた後、酷くわざとらしく喘ぎだした。


「アァー、センセー、セセー、イヨー」


石井は情事のさなかボヤける思考回路をフル稼働し、目の前にいる薄汚いアジア女のビジュアルを朝倉香に脳内変換した。不自由な日本語と下手な喘ぎ芝居の珍妙な二重奏を、これもどうにかこうにか朝倉の慎ましい喘ぎ声に変換する。


『先生、いいですっ、先生っ!』


石井とて腐っても役者である。こういう時のイマジネーション作りはお手の物だ。石井のモノが女の窒内で一気に堅みを帯びた。


「アゴゥアッ!?」


女が不意を衝かれたように妙な喘ぎを上げる。石井も脳内変換が一通り完了した様で、一気に興が乗ってきた。


「あああ薫!薫!かおるぅぅ!!中に出すぞ薫!受け止めろホラ、先生の、石井先生様の精液中で受け止めろゴラぁぁ!!」

「アアー!ノエミー、ノエミいくー!!ノエミいってしまうまうー!!」

「‥‥お前はノエミじゃなくて薫だろうがァァァ!!」



石井は嬌声を上げた女の鼻っ柱に、フルスイングの鉄拳を叩き込んだ。女の上半身がもんどりうって倒れ、吹き出した鼻血がその軌跡をなぞるかのようにアーチを描く。


異常を察しすぐさま飛んできた店員は石井に詰め寄る前に、まず倒れ込んだ女の両脇を抱え上げ、乱暴に引きずって部屋から放り出した。廊下の方でゴトン、と肉が床に打ち付けられる固い音が鳴る。その後石井の所に戻ってきた彼は「2万円」と言って両手を差し出した。ここで初めて自分がやらかした事をはっきり認識した石井は、条件反射的に財布の中からくしゃくしゃの万札二枚を慌てて引き抜き、手渡した。



「ったく、こういうプレイなら前もって言っといて貰わないと。」



つまり罰金や賠償金でなく、オプションの追加料金という事らしい。


店員は続けて「で、どうします?後30万位出せば、さっきの女を足腰立たない位まではボコボコにして貰えますけど」と眉一つ動かす事なく言った。


09/17 12:24

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「講師」第4話

一心塾の講師ミーティングは、毎月第二・第四火曜日に、笹塚駅前の塾舎にて行われる。




ミーティングなどと言っても、講師達に何らかの決定権があるわけではない。生徒の育成方針やカリキュラムを決めるのは事務所であるから、彼らはその指示をただボケーッと聞くだけだ。




「えー、今季延びてきている声優というので、えー、ブルーアークの静間孝明というのがおりまして、えー、我々も彼の様に『主役を穫れる声優』というのを育てて参りたいなと‥‥‥」




教務部のスタッフ・榊原が気のない声でホワイトボードを差しながら今後の方針について説明している。毎度の事ながら、何とつまらない時間だろう。


視界の隅っこで、赤井が居眠りしているのが見える。岡田は年甲斐もなくゴテゴテに飾り付けた携帯電話をいじっているし、江藤は一見顔を正面に向けて話を聞いている様に見えて、その目はせわしなく泳ぎ続けている。この空間、船頭役の榊原を含め、皆等しくやる気がない。


そもそも、ここ最近ろくに現場に出ていないボンクラ4人に最先端のトレンドを踏まえた育成方針を実践しろなどというオーダー自体、フライパンも握った事がないチンパンジーにホットケーキを作れと言っている様な物だ。当然、4人とも静間なる馬の骨の名前も、顔も、声も知らないし、それを調べてみようなどという前向きな気持ちもない。


大体、「声優に特化した育成」などという物自体、声優になる為に必要かと言われれば決してそうではない。石井のような子役上がりが「声優になる為の勉強」などせずに業界に居座っている事がその証明だ。


外郎売りや既存の台本を使ってのトレーニングなど自主トレで十分事足りるし、アフレコ実習に至ってはもはやオタクが喜ぶだけのレクリエーションでしかない。そんな形ばかりの「教育機関」に何百万もの学費をつぎ込ませ、多くの若者を路頭に迷わせる我々の商売の、何と卑しい事か‥‥‥石井もかつてはそんな呵責に苛まれた事がある。


が、ものの一年もたたぬ内に、会社‥‥‥否、養成所ビジネスを運営の核とする「業界全体」の歯車で居る事への抵抗は無くなった。「役者としてのプライド」を、「生活をしなければならない」という圧倒的な現実が上回ったのである。





「静間くん?知らないなあ‥‥‥。なに?イケメンなの?」


出し抜けに岡田が口を開いた。恐らく安物なのだろう香水の匂いがツンと鼻をつく。
この女、20年前にアニメの端役でデビューした時には舌っ足らずで鼻に掛かった声を武器に活躍が期待されたのだが、在籍二年目にして早々に枕営業がバレ、「講師業」というこの業界の僻地へと追いやられた。


実は講師の中では2番目の年長者で石井よりも年上なのであるが、芸風が20年前から一貫して変わっていない事は、同業者の目から見てもスゴいというよりただただフリーキーであった。その上年甲斐なくまだまだ「メス」としてお盛んな節があるのが恐ろしい。石井は毎年恒例の事務所の新年会で、彼女が親子ほど年の離れた年少の役者に舌っ足らずなアニメ声でモーションを掛けている様子を何度か見た事がある。何ともおぞましい光景であった。


「うーんと、まぁ、そうですね。」


「写真見せて」


「えー、はい、こちらです」


「‥‥‥へぇ、そうでも無いじゃん」


いう迄も無い事だが、声優業界でいう処の「イケメン」のハードルは驚く程低い。人に不快感を与えない程度の清潔感と嫌みっ気の無ささえあれば、後は演じているキャラのイメージによる補正と事務所の戦略とでどうにでもなる。逆に言えば彼らの様な「雰囲気イケメン」でさえ、腐る程いる声優志望の中では「上澄み」の部類であるという事だ。つまり、それ以下の階層では「何かの拍子に勘違いして声優を目指してしまった、目も当てられない様なブサイク」の層が折り重なるように存在しているのである。


岡田のアホが馬の骨の写真を必要以上にねっとり吟味しやがったせいで、終了予定時刻が大幅に遅れてしまった。くそ。



※※※※※※※※※※※※

不毛な業務連絡が終わりスタジオの外で一服していると、江藤が話しかけてきた。


「石井先生、いやあ見ました?今年の子達。」


この江藤なる男は、小学校3年生の頃に市内の朗読コンクールで最優秀賞を取った事をきっかけにこの世界を志したらしい。石井はこいつのナヨナヨした喋りが大嫌いであったが、人はこのナヨナヨ感を「耳障りがいい」「柔らかい」などと感じるのだという。不思議なものである。


彼は齢37にして未婚であった。いや、それどころか恋愛経験ゼロで童貞であった。理由は簡単、ブサイクで陰気だからだ。故に幼少の頃より友達が出来ず、ずっと本のみを友達に生きてきた。結果、人間相手のセリフ仕事だと血の通ったセリフが言えず、かといってナレーション仕事だとクライアントとうまくコミュニケーションが取れないというので仕事が減り、この養成所の講師に流れてきた。


コミュニケーション不全気味の彼が石井に懐いているのはひとえに「生徒をエロ目線で見ている」という秘密を共有しているからだ。37年分鬱屈され続けた江藤の情欲は異様に研ぎ澄まされた観察眼を覚醒させ、石井に「C組の浅田は胸が大きいけどワキガ」「A組の木村は酔わせれば誰とでも寝る」など、それなりに有益な情報をもたらしている。生徒を視姦するのにも、こういう予備知識があるのとないのとでは、愉しさが段違いなのである。


「D組の朝倉香ってコなんですけどね。細くて声がか細くて大人しいコなんですよ。この業界、見た目は大人しそうなのにやたらしたたかなコとかが多いですけど、あの子は本物です。久し振りに見つけましたよ、ダイヤの原石を!多分処女ですよ処女!」江藤のひたすら気持ち悪い喋りが熱を帯びる。


声優養成所というのは基本的にオタクの集合体であるから、全体の顔面偏差値はタレント志望やモデル志望のそれに比べ、圧倒的に低い。故にスケベ心を内に秘めたオッサン共は、「必至に垢抜けようとしている65点くらいの娘」を妥協点とした上で、若いだけが取り柄のイモ娘共を値踏みしていく事になる。コレが癖づくと本当に「65点位の女」にしか興奮しなくなるのが恐ろしい。



「やっぱね、うん、香ですよ今年は!あれは僕のですからね、手を出さないで下さいよ石井先生!」



熱くなってきた江藤は、朝倉なる生徒の事をファーストネームで呼び始めた。多分こいつは遠からぬ将来、生徒への劣情を抑えきれず問題を起こすだろう。


そうなったら、養成所は閉鎖となるだろうか。

いや、ならない。


事務所にとってココは金のなる木だからだ。事実関係を隠匿し、講師の首をすげ替え、何事も無かったかの様に運営され続けるだけの事だ。
それは赤井とて同じ事であった。彼の後ろにも、食い扶持に困っている「役者と名ばかりの無職」が列を成しているのである。


そこに役者としてのプロ意識や矜持などある筈もない。つくづく卑しい商売だ。石井はタバコの火を消し、ゆっくりと帰路に就いた。


09/03 22:24

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「講師」第3話

6年前に前妻の早紀と離婚して家を追い出された石井は、現在都内のアパートで実母と2人暮らしである。




妻の早紀の方が収入が多い「ノミの夫婦」として始まった結婚生活は、ある日早紀が弁護士を伴って石井に離婚届を突き付けた事で決裂した。センスも華も向上心もない石井が早紀の活躍に一方的に嫉妬していさかいが増えていた所に、最後は赤井のじじいが飲みの席で石井の少女買春による前科をチクった事が決定打となった。


学のない石井は「弁護士」や「裁判」といった何やら物々しい言葉に震え上がり、四の五の言わず離婚届に判をついた。


購入した家の名義も早紀であった為、離婚調停が一段落した処で「じゃあ2日以内に荷物まとめて出てってね、このロリコン」とけんもほろろに追い出され、連帯保証人が居なくても入居出来るこの安アパートに移り住み、その後更に住んでいたアパートを家賃滞納で追い出された母親が転がり込んで現在に至る。


この母親というのが、これまた致命的に頭が悪い上にやる事なす事の総てが空回るクチのバカで、真面目に・一生懸命になればなる程周りに迷惑をかけるタイプの生き物であった。以前住んでいたアパートの家賃を払えなくなったのも、折からの不況にかこつけて35年勤め上げた会社をあっさりクビになったからである。


幼い石井に芸能界入りを勧めたのも母であった。新聞で「子役募集」の広告を見つけ、勝手に芸能事務所に息子の履歴書を送ったのだ。母親は事務所からの採用通知を両手で掲げながら「よしひろちゃん、お芝居おやりよ、お芝居」と、深い考えなど何もないのが丸わかりのバカ顔で言った。石井は石井で、ゲーノージンになれば皆からちやほやされながら楽に生きられるだろう、と何ともしょうもない動機で従った。それから40年。タレントとして華も才能も無い石井が辿り着いた場所は、芸能界という地平の最果て・声優界であった。




「個性派発言事件」の翌日。日がとうに上りきった頃、石井は寝床からだらしなく這い起きた。台所から人の気配がする。


この時間、母親はスーパーのレジ打ちのパートに出ている筈だが‥‥‥家にいるという事は、どうやらまた仕事をクビになったようだ。これでもう12回目になる。


母親は石井の家に転がり込んで来て以来、「ただで住まわせて貰うわけにはいかないから」と何度となくパートに出ようとするのだが、二週間以上続いた試しがない。大抵研修の段階で不適格と見なされるか、実務に入ってから余りの要領の悪さにクビを宣告されるのだ。とある会社の事務職に応募した時などは、面接前に書かされる応募用紙の書き方が分からず、係の人間が何度説明しても理解できなかったというのでそのまま帰された。



「おい、パートじゃねぇのかよ」

「あ、いえ、アレはね、今日はお店が休みで‥‥‥」

「クビになったんだろ」

「‥‥‥‥」

「すぐバレる嘘をつくんじゃねぇよ。ガキかお前は。」



いや、今時のガキならば、もう少し手の込んだ、こましゃくれた嘘をつく。人間の言葉を喋れる事を除けば、コイツの思考回路は動物以下だ。



「出掛けてくる」

「何処へ行くの?あのね、余りパチンコに行き過ぎるのはよくないわよ。ああいうのは必ず裏にヤクザ屋さんがいて‥‥‥」

「俺の金だ」

「‥‥‥」

「この家の家賃、この家の中にある物、全部俺の金でどうにかした物だ。文句があるんなら今から5分で荷物をまとめて、この家から出ていけ」

「でもね‥あのね‥」

「ほら早くしろ。この家の中にあるお前の身の回りのモンなんざ、たかが知れてる。みすぼらしい服が3組くらいと、擦り切れたがまぐちの財布だ。それらを取りまとめんのに、5分も掛からないだろ。ほら早くしろよ。」

「何でそんな事言うのおおお」



というが早いか、バカ母は両手で顔を覆ってさめざめと泣き出した。一片の憐憫も沸かない、見る物迄もを不幸の渦に巻き込まんばかりのただただ不快な絵面であった。




石井はバカ母に舌打ちを一つよこした後、背を向けて家を出た。


最近のアイツの抜け方は、只のバカというには少し目に余るようになってきた。石井はあのバカ母がアルツハイマーに掛かっているのではないかと疑い始めていた。が、もしそうだったとしても医者に架からせるつもりなどない。適当に町中を徘徊させれば、何処かで間抜けに事故にでも遭って死んでくれるだろうか。元より自分にはコイツを保護する責任などないのだし、あんな奴は間引かれた方が世の中のためだしな。





結局その後に打ったパチンコは4万円負けた。くそ、アイツのせいだ。あのババアが湿っぽい面で俺をねめ付けたから、厄が付いたのだ。


帰り際、石井は100円ショップでテカテカ輝くプラスチック製の靴べらを買った。何かムカッ腹がたった時に、バカ母をひっぱたく為であった。


07/26 16:22

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